2018年12月01日

2018年12月号 「巻頭言」

12月巻頭言

                      
中川 明 神父


「月夜のでんしんばしら」という宮沢賢治の童話があります。ある晩
恭一という少年が鉄道線路のすぐ横で、電信柱の行進を見ます。
ところが、そこを通りかかる夜汽車の乗客には見えません。夜、車内は
車内燈で明るく、外を見ようとしても窓ガラスは鏡のようで、自分の
顔が映るばかりで、なかなか外の風景は見えないのです。つまり、
あの少年には見える「月夜の幻想」は「夜汽車の車内の現実」に
いる私達には見えないのです。私達には見えないことがたくさん
あるのに、見えないことに気づいていないと、童話は示唆するのです。

 両親の介護を通して、妹たちとの接点が増え、仲良く
なりました。それは知らなかった妹たちの世界に触れ、私の気づいて
いなかった「世界」が、「見えていた世界」の背後に大きく広がって
いることを垣間見て、妹たちへの愛おしさが増したからです。

 夜汽車の車内から外が見えることがあります。車内燈が消え
車内が真っ暗になる時で、童話では、きまった時期にそうなります。

クリスマスがそんな時になるように祈ります。
見えなかった世界が少し見え、互いを愛おしく思えますように。
(別役実の解説を参考にしました。)
posted by カトリック明石教会 at 10:53| Comment(0) | 巻頭言

2018年11月03日

2018年11月 「2018年、11月に想うこと」

「2018年、11月に想うこと」

                            
担当司祭 申 繁時


季節はどっぷりと秋になり日々すごしやすくなりました。
そんな中で、11月は教会にとって「死者の月」となります。
日本のしきたりとしては亡くなった方々は、8月中旬頃のお盆を中心にお祈りをすることは、みなさんも知るところですが、教会は全世界をあげて11月を「死者の月」として、亡くなられた方々のために追悼等を行います。ですから命日以外にも11月においてお祈りをささげていただくことは大切かと思います。わたしも昨年2017年のはじめに父親を亡くし、一年以上がたち想いだされることが多々わき起ってくるようです。父はすこしずつ身体が弱ってのことで、最初は家族でなんとか世話をしていましたが、それもできない状況となり家族会議のもとに施設にあずかってもらいながら見守ってきました。最後は急変し病院に移り二週間後に亡くなりました。いま考えると、この神戸西ブロックに来た当初(2016年春)から、実家からの相談やがんばって大阪まで行き来して家族と接することをしてきました。介護していた母親が先に倒れて一時はどうなることかとあわてたこともありました。そんな中で、わたし自身も昨年から体調がすぐれない日々が続くこととなり、教会のみなさんには迷惑をおかけしたかもしれません。
ほんとうに昨年2017年はわたしのとって大きな節目の時と感じています。
ところで、最近よく耳にしている言葉があります。それは「しゅうかつ」という言葉です。最初は学生さんたちが、やはりこのご時世なので、就職難で「就活」すること、就職活動することが大変なので話しをしているかと思ったら、その「しゅうかつ」ではなく、「終活」することだと知りました。読みが同じで意味がまったく逆だったことです。
「終活」とは、つまり生きているうちから死の準備をすることだと知りました。ほんとうに驚きました。いよいよ死に対して準備をすることを、自分自身から考える世の中の価値がやってきたことです。このことがほんとうに正しいのか自問自答しています。
わたしたちは、いずれは神さまのもとへ帰ります。その時をいつかは知ることはできません。しかし、だからこそ知らなければならないことがあります。それは、死を待つことではなく、死を超えて生きることです。
いま考えると父も終活していたのか、終活させられていたのかと一瞬思いました。
でもこれだけは言えます。父の言葉や態度で死ぬための準備や「死したい」とは一言も聞いたことがないことです。寝たきりでも「生きたい」という態度でした。
わたしたちは死ぬために生きていません。最後まで一分一秒まで生きるために生きています。死を超えて復活するために生きています。
今年2018年11月の「死者の月」は、いろんな想いがありました。
posted by カトリック明石教会 at 11:11| Comment(0) | 巻頭言

2018年10月07日

2018年10月号  「私たちはブロック合同堅信式を迎えます」

私たちはブロック合同堅信式を迎えます

                             
高橋 聡

 今月10月14日に神戸西ブロックは酒井補佐司教様をお迎えして合同堅信式を行います。
 堅信の秘跡は私たちに聖霊降臨のお恵みを与えると教会は教えています。しかし、特に近年みられることですが、このような秘跡を受けても、あまり心も燃え上がらず、堅信式が教会の卒業式になってしまう子供たちも出てきています。
 秘跡は確かに私たちに神の恵みを与えるしるしですが、私たちの方に恵みを受ける意志がまったく無ければ、私たちの意志が尊重されて、恵みが与えられないということが起こります。(現状の原因をこれだと決めつけているわけではありません。しかし、もう一度初歩的な教えに立ち戻って確認をしていきましょう)。
 教会はまず私たちに信仰を求めます。秘跡を受けるとき私たちは主を信じているでしょうか。主イエズス・キリストを私たちの救い主であると信じ、主のご復活を信じ、御聖体がイエズス・キリストそのものだということを信じているでしょうか。信仰によって私たちは恵みをいただきます。「あなたの信仰があなたを救った」と主は言われます。
 私たちは、次に、回心の道を歩んでいるでしょうか。堅信の秘跡や聖体の秘跡を受けるとき私たちは恵みの状態になければなりません。ですから、恵みの状態でなければこれらの秘跡を受ける前に、必ず自分の犯した大罪をすべて告白してゆるしの秘跡で赦していただかなければなりません。そうしなければこれらの秘跡を受けても、神の恵みは与えられませんし、さらに罪を犯すことになってしまいます。ゆるしをいただくなら、神の恵みはきっと私たちの心に喜びと平和を与えて下さるでしょう。「悔い改めて福音を信じなさい」と主は言われました。
 さらに、私たちは祈っているでしょうか。私たちが恵みの中に生きるために秘跡だけでなくお祈りも必要です。お祈りによって、秘跡で与えられた恵みが働き始めることもまれなことではないと思います。主も「求めなさい。そうすれば与えられる」と言って祈りをすすめられました。
 秘跡を受けるときこういったことにも注意してみましょう。そうすれば必ず恵みが与えられるはずです。恵みをいただいて信仰を表していきましょう。
posted by カトリック明石教会 at 14:54| Comment(0) | 巻頭言