2016年06月03日

2016年6月 池長大司教  自己紹介5

 この前は、東京の上石神井の神学校で勉強中に体験した「情熱的な祈り」あるいは、「情動の祈り」と呼ばれる神、又はイエスと向かいあっていることを感知して、留まる祈りについて書いた。今回はすべての神学の勉強が終わって、司祭になるための叙階式も受けて、神父になって働く前に最後の霊的養成をほどこされるイエズス会の第三修練期の終わる直前にするよう定められている30日間の黙想の時の体験について記そう。
 1ヶ月の間、ただ神様と向かい合って、いっさい人と話しをしない厳格な黙想である。この間3回の休みの日がある。それぞれ、朝食のあとから、夕食まで、人と話すことができる。この中、休みの日以外はまったくひとことも話ができない沈黙を守るのである。最初から最後まで、聖イグナチオの霊操にそって進められるのである。
 初日から無限の神様に引き込まれるような霊魂の動きにとらえられた。自分の方から努力して精神を集中させ、魂を神にむけようとするのとは全く違う。毎回、祈りに入るなり、神の現存に引き寄せられ、神自身の中に留まってしまうのである。この状態で、2時間や3時間留まっても、あっという間に時間が過ぎてしまうのである。朝から晩まで起きている時間はずっと神に集中して留まっているような時の流れであった。
 毎日、毎日、魂が神に引きつけられ、向かわされてしまうという受身の祈りである。この状態の中で、はじめから無限の神を見たいという欲求が強く起こってきた。
 そのため、毎回祈りに入り始める時から、神に霊魂の眼を向けようとする。そして、神を見たいという思いでいっぱいになるのである。こうして、神の現存に集中しようとしていると、これまで全く経験したことがない不思議な現像が生まれた。普通、人間の諸能力は自分でコントロールできる。散漫になれば、精神統一をして、もう一度意識を一点に向けることができる。しかし、この種の祈りで起こる散漫は全く自分の支配の枠外にある。完全に自己制御能力を超えている。感情も想像力も思考力も自由奔放に支離滅裂に走りまわるのである。自分の手に負えないので、「神様あなたの手の中に、私の諸能力を収めてくだい」と自然に祈ってしまう。本当に謙虚にならざるをえないのである。
 私のこの祈りを聞き入れてくださって、神が私の諸能力をご自分の手の中に収めて下さった瞬間に私は、神がご自分の手の中に収めて下さった私の認識能力によって、生まれてはじめて神を見ることになる。相手は無限者であるからであろう、神の全貌を見ることはできない。しかし、確かに神を直接見ていることはわかる。
 この種の祈りの体験の喜びは、とても言葉で言い表せるものではない。まさに歓喜そのものである。この1ヶ月霊操の期間中、霊操の第三週と言われるイエスの受難の週は、この週の間ずっと上述したような祈りの体験はできなかった。本当に苦しい一週間であった。しかし、復活の週になると再び例の観想体験が戻ってきた。私にとっては、すごく恵まれた霊操体験であった。 
posted by カトリック明石教会 at 14:39| Comment(0) | 巻頭言