2016年10月03日

216年10月 自己紹介6

巻頭言
   池長 潤 大司教

 この前、自己紹介5で書いたようにイエズス会における最後の修練(第3期修練)の終わりに、第3期修練者が全員行うことになっている、イエズズ会創立者のロヨラの聖イグナチオが生み出した黙想である「霊操」を一ヶ月間に渡ってした時に、どのような祈りの体験をしたかについてお伝えした。お伝えした体験はいわゆる観想と言われる範ちゅうに属するものである。
ところで、この種の祈りの体験とは別種の際立った体験もあったので、今回はそれを記してみたい。
 前回にイグナチオの霊操は4週にわたって行われるものであることを申し上げたが、その第3週が終わって第4週に移るなか、休みの日の晩のことである。夕食が終わって、第4週がこれから始まろうとするとき、食事の後の休憩に、修道院の庭に出た。もうあたりはすっかり暗くなっていた。建物から外に出るなり、何か不思議なことに岡の上の方に向かって、引きつけられるように歩かされた。広島の長束のこの修道院には、庭の上の方にお墓がある。これまで亡くなったイエズス会の司祭や祇園教会の信者がここに葬られている。
何としたことか、私はこの闇の中を、お墓の方に向かって引っ張られていた。そこに至る道は、両側に森が囲んでおり、樹々に挟まれた細い道になっている。こんな時間にこんなところをお墓に向かって行くことなど、普段は考えられない。それをこの時はなぜか引きずられるように、墓まで導かれたのである。「怖い」といった感覚はなかった。岡の上のお墓に踏み込んだとたん、美しい星空の上一面に天が開け、亡くなられた信者たちや修道者たちが、そこに今生きていることがはっきりわかった。ものすごく幸せであった。自分もそこに行けるのだと思った。神様はこんな世界を私たちに差し出してくださる方なのだ。
一ヶ月の霊操が終わって、次の日は一日休みであった。この日に、散歩に出かけた。歩き始めた時から、道の両側に広がる自然がこれまで見続けてきた自然と全く違って見えた。その違いが、いつもと少し違うというものではなかったのである。自然そのものが神秘の世界と一体化しているように感じていた。世界とはこんなにも美しいものかと思いながら散歩していた。ひょっとすると、一週間前に見た星空と今回味わった大自然とが、本当の現実の世界なのかもしれない。普通目に見えている世界は、本来はそれを越えた神秘の世界と一体化して存在しているのではないだろうか。


posted by カトリック明石教会 at 13:24| Comment(0) | 巻頭言