2016年12月05日

2016年12月号 「 待降節に思うこと 」

待降節に思うこと
    
                         
後藤 進神父

相模原の障害者施設での元職員による殺人事件、この事件の報に接した瞬間に私が思い出したのは、大阪で長崎出身の青年が病死した時に、その葬儀を断った神父のことでした。青年の通夜と葬儀ミサは私が引き受けました。その神父の話を直接聞いた訳ではありませんが、私が聞かされたのは、その青年が教会に全く来なかったことを非難し、彼には信仰がないのだ、信仰がない人の葬儀を教会はしない、というものでした。その時、私の心に浮かんだのは、「ほう、あんたは神様か」の言葉でした。この施設の元職員の「障害者は生きる価値がない」との言葉に、私の心に同じ言葉が浮かんだのでした。
当時、私は重度の障害者の人達と生活を共にしていた。生れつきの重度障害であった。殆ど何をするのも助けを借りねばならない人達だった。私の中では、彼らをこのような障害者にしたのは神様以外にはありえなかった。生れつきの盲人を見た時の弟子達の問い「この人が生れつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」に答えるイエス様の声「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」(ヨハネ9;3)も心に響いていた。もう一つ私の心にあったのは神様とアブラハムとの対話(創世記18;17~33)の話である。
話は逆であって、真実のところは神様からの重荷を黙って背負ってくれている彼らに普通の人である我々の方が支えてもらっているのである。普通の人である我々は、人を蔑みもする、批判もする、欲もかく、要するに罪人なのである。彼らは人の助けをかりなければならないので人の批判はしないし、自分では出来ないので欲もかかない、助けを待つ忍耐の大事さも知っている。彼らの方が余程神様の前に正しい人である。私は彼らこそが主の僕だと思っている。
私たちも彼らの様に、神様から来ることは本来なんでも受け取るべきではないか。そうあのヨブのようにである。いや、神様の手から来るものに悪いものなどないと、私は考える。出来れば喜んで受けるべきである。それが神様の僕たる者の生き方であろう。
posted by カトリック明石教会 at 14:30| Comment(0) | 巻頭言