2018年11月03日

2018年11月 「2018年、11月に想うこと」

「2018年、11月に想うこと」

                            
担当司祭 申 繁時


季節はどっぷりと秋になり日々すごしやすくなりました。
そんな中で、11月は教会にとって「死者の月」となります。
日本のしきたりとしては亡くなった方々は、8月中旬頃のお盆を中心にお祈りをすることは、みなさんも知るところですが、教会は全世界をあげて11月を「死者の月」として、亡くなられた方々のために追悼等を行います。ですから命日以外にも11月においてお祈りをささげていただくことは大切かと思います。わたしも昨年2017年のはじめに父親を亡くし、一年以上がたち想いだされることが多々わき起ってくるようです。父はすこしずつ身体が弱ってのことで、最初は家族でなんとか世話をしていましたが、それもできない状況となり家族会議のもとに施設にあずかってもらいながら見守ってきました。最後は急変し病院に移り二週間後に亡くなりました。いま考えると、この神戸西ブロックに来た当初(2016年春)から、実家からの相談やがんばって大阪まで行き来して家族と接することをしてきました。介護していた母親が先に倒れて一時はどうなることかとあわてたこともありました。そんな中で、わたし自身も昨年から体調がすぐれない日々が続くこととなり、教会のみなさんには迷惑をおかけしたかもしれません。
ほんとうに昨年2017年はわたしのとって大きな節目の時と感じています。
ところで、最近よく耳にしている言葉があります。それは「しゅうかつ」という言葉です。最初は学生さんたちが、やはりこのご時世なので、就職難で「就活」すること、就職活動することが大変なので話しをしているかと思ったら、その「しゅうかつ」ではなく、「終活」することだと知りました。読みが同じで意味がまったく逆だったことです。
「終活」とは、つまり生きているうちから死の準備をすることだと知りました。ほんとうに驚きました。いよいよ死に対して準備をすることを、自分自身から考える世の中の価値がやってきたことです。このことがほんとうに正しいのか自問自答しています。
わたしたちは、いずれは神さまのもとへ帰ります。その時をいつかは知ることはできません。しかし、だからこそ知らなければならないことがあります。それは、死を待つことではなく、死を超えて生きることです。
いま考えると父も終活していたのか、終活させられていたのかと一瞬思いました。
でもこれだけは言えます。父の言葉や態度で死ぬための準備や「死したい」とは一言も聞いたことがないことです。寝たきりでも「生きたい」という態度でした。
わたしたちは死ぬために生きていません。最後まで一分一秒まで生きるために生きています。死を超えて復活するために生きています。
今年2018年11月の「死者の月」は、いろんな想いがありました。
posted by カトリック明石教会 at 11:11| Comment(0) | 巻頭言
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