2019年01月05日

2019年1月号 新年おめでとうございます

新年おめでとうございます

橋聡



 2019年がスタートしました。今年はパパ様が日本に来られるという話が出てきていますので、今年も昨年に引き続き恵みの年になるであろうとの希望のもとに、一年を過ごしていきたいものです。
 日本のカトリック信者、特に長崎の潜伏カトリック信者たちはパパ様が来られるのを待ち望んでいたと聞いたことがあります。ある同僚の神父様に聞くところによれば、聖ヨハネパウロ2世が、1981年(だったと思いますが)に長崎にいらしたときから状況が変わり、それまで長崎では支配的だった信者に対する差別感情が消えていった、あるいは薄まっていったということです。
 このようなこともあってからか、あるいはほかにもたくさん理由があると思いますが、今回、前田万葉枢機卿様も、フランシスコ教皇様にぜひ日本に来てくださるよう申し上げられ、そのため、教皇来日の話が浮かび上がってきているみたいです。
 今年の10月をパパ様は宣教のための特別月間として定められたので、大阪教区でも行事が進められるかもしれません。
 私たちはもちろんありきたりの年中行事のように行事に参加するのではなく、この機会を、福音宣教を見直す「時」にしたいものですね。
 前回、聖ヨハネパウロ2世も、宣教者としても日本に来られましたが、もちろんフランシスコ教皇様も宣教者としていらっしゃるでしょう。そのいつもインパクトある言葉を受けとめて、目覚めさせていただきたいものだと思います。
 一昨年には福者ユスト高山右近の霊性を学ぶというテーマで祝われ、昨年は再宣教150周年を祝った大阪教区の今年のテーマはおそらく新たな(宣教への)出発か何かではなかったかと思います(まちがっているかもしれませんが)。いずれにせよ、今年も神様は恵みをたくさん準備してくださっております。私たちがそのお恵みを、怠慢や、かたくなな心や、へ理屈などで無駄にしてしまわないようにしていきたいものです。
 元旦は神の母聖マリアの祭日で、世界平和の日ですが、今年もマリアさまのおみちびきを願って、主の平和のうちに歩めますように。
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2018年12月01日

2018年12月号 「巻頭言」

12月巻頭言

                      
中川 明 神父


「月夜のでんしんばしら」という宮沢賢治の童話があります。ある晩
恭一という少年が鉄道線路のすぐ横で、電信柱の行進を見ます。
ところが、そこを通りかかる夜汽車の乗客には見えません。夜、車内は
車内燈で明るく、外を見ようとしても窓ガラスは鏡のようで、自分の
顔が映るばかりで、なかなか外の風景は見えないのです。つまり、
あの少年には見える「月夜の幻想」は「夜汽車の車内の現実」に
いる私達には見えないのです。私達には見えないことがたくさん
あるのに、見えないことに気づいていないと、童話は示唆するのです。

 両親の介護を通して、妹たちとの接点が増え、仲良く
なりました。それは知らなかった妹たちの世界に触れ、私の気づいて
いなかった「世界」が、「見えていた世界」の背後に大きく広がって
いることを垣間見て、妹たちへの愛おしさが増したからです。

 夜汽車の車内から外が見えることがあります。車内燈が消え
車内が真っ暗になる時で、童話では、きまった時期にそうなります。

クリスマスがそんな時になるように祈ります。
見えなかった世界が少し見え、互いを愛おしく思えますように。
(別役実の解説を参考にしました。)
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2018年11月03日

2018年11月 「2018年、11月に想うこと」

「2018年、11月に想うこと」

                            
担当司祭 申 繁時


季節はどっぷりと秋になり日々すごしやすくなりました。
そんな中で、11月は教会にとって「死者の月」となります。
日本のしきたりとしては亡くなった方々は、8月中旬頃のお盆を中心にお祈りをすることは、みなさんも知るところですが、教会は全世界をあげて11月を「死者の月」として、亡くなられた方々のために追悼等を行います。ですから命日以外にも11月においてお祈りをささげていただくことは大切かと思います。わたしも昨年2017年のはじめに父親を亡くし、一年以上がたち想いだされることが多々わき起ってくるようです。父はすこしずつ身体が弱ってのことで、最初は家族でなんとか世話をしていましたが、それもできない状況となり家族会議のもとに施設にあずかってもらいながら見守ってきました。最後は急変し病院に移り二週間後に亡くなりました。いま考えると、この神戸西ブロックに来た当初(2016年春)から、実家からの相談やがんばって大阪まで行き来して家族と接することをしてきました。介護していた母親が先に倒れて一時はどうなることかとあわてたこともありました。そんな中で、わたし自身も昨年から体調がすぐれない日々が続くこととなり、教会のみなさんには迷惑をおかけしたかもしれません。
ほんとうに昨年2017年はわたしのとって大きな節目の時と感じています。
ところで、最近よく耳にしている言葉があります。それは「しゅうかつ」という言葉です。最初は学生さんたちが、やはりこのご時世なので、就職難で「就活」すること、就職活動することが大変なので話しをしているかと思ったら、その「しゅうかつ」ではなく、「終活」することだと知りました。読みが同じで意味がまったく逆だったことです。
「終活」とは、つまり生きているうちから死の準備をすることだと知りました。ほんとうに驚きました。いよいよ死に対して準備をすることを、自分自身から考える世の中の価値がやってきたことです。このことがほんとうに正しいのか自問自答しています。
わたしたちは、いずれは神さまのもとへ帰ります。その時をいつかは知ることはできません。しかし、だからこそ知らなければならないことがあります。それは、死を待つことではなく、死を超えて生きることです。
いま考えると父も終活していたのか、終活させられていたのかと一瞬思いました。
でもこれだけは言えます。父の言葉や態度で死ぬための準備や「死したい」とは一言も聞いたことがないことです。寝たきりでも「生きたい」という態度でした。
わたしたちは死ぬために生きていません。最後まで一分一秒まで生きるために生きています。死を超えて復活するために生きています。
今年2018年11月の「死者の月」は、いろんな想いがありました。
posted by カトリック明石教会 at 11:11| Comment(0) | 巻頭言