2018年09月08日

2018年9月号 「2018年8月に想うこと。」 

「2018年8月に想うこと。」  

                   
神戸西ブロック担当司祭 申 繁時

みなさま、お元気ですか。
今年も暑い夏がやってきました。近年は毎年記録的な暑さとなります。そろそろ体温をはるかに超える40度の世界が待っているのかもしれません。つまり、温暖化現象が現実味を帯びているのかもしれません。私たちの住んでいる地球は、今の所人間が中心になって成り立っています。しかし、忘れてはならないことは、その人間を創られたのは、神様だということです。そして、言うまでもなく地球も宇宙も神様によって創造されたのです。なので、勝手に地球をコントロールしては本来ならないということになります。
また、自然界だけではなく、人間界も同じです。人間を勝手にコントロールすることはできません。自然界のバランスを崩すかのように、人間が人間をコントロールしてバランスを崩すことになるからです。
2018年の前半期も様々なことがありました。しかし、喜ばしい事よりも、天災、災害をはじめとし、悲しい出来事が続いていた気がします。特に人間が人間をコントロールしている現実です。そしてその結末は、弱い者がさらに弱くされていくシステムになっていくことです。救いを求めても救われず、弱い者を踏み台にして少しでも楽になろうとするような感覚かもしれません。そして、そこには罪悪感すらありません。本当に怖く、恐ろしい、また悲しくも寂しい何とも言えない風潮に流されているかのようです。
もちろん、すべての人間がそのようになってはいません。悲しい出来事は全体から見ればひと握りかもしれません。しかし、本当に怖いのは、その悲しい出来事の引き金を引く手前の予備軍となる方々がどれほどいるかということです。なにかをきっかけで引き金を引いてしまうかもしれないことです。
確かに現実は甘くはなく、厳しいことばかりと、不安が募るかもしれません。しかし、だからこそ、神様の存在が大切かつ必要となります。信仰生活は必要なのです。
ある霊的に深い神父さんが言いました。「今こそキリスト者の出番がやってきました」と。
私たちキリスト者が、神様からの恵みと召命を受けて、悲しい出来事を一つでも無くして、多くの救いになるように、福音(良き知らせ)である愛と希望を届けることです。
夏真っ盛りですが、つながるチャンス(夏休み、お盆休みなど)が多い時でもあります。
どうか、心に新しい風を吹き込んで、吹き入れて、この時を大切な時にいたしましょう。

多くの司祭が出るように
池長大司教
 カトリック司祭として生きている人達は皆、哲学の勉強と神学の勉強をしてきている。それぞれ3年以上かかるので、ほとんどの司祭は、6年以上の勉強期間を経て、ようやく司祭として働くことができるのである。ほとんど全ての者が、司祭コース以外の普通の大学の学部、学課を卒業してから、司祭のコースに移るので、司祭になる時には、30才を超えている。
 大学を卒業した人が非常に多い日本の社会で、教会の幅広い層の人達を、霊的な、司祭的な分野で信仰に関する指導をすることは、それほど簡単ではない。司祭にも相応の知識の巾がいる。経験の広さ、深さも要求される。
 このように様々な難しさはあるが、司祭がもっと多く必要なのも事実である。全ての信仰者が、この事実を深く把握して、少しでも多く、司祭志願者が出るように、励み、祈る必要がある。私達のブロックから、実際に多くの司祭が生まれて欲しいものである。
posted by カトリック明石教会 at 10:59| Comment(0) | 巻頭言

2018年07月02日

20181年7月 忙しさについて(1)

忙しさについて(1)

高橋 聡

 今月も、教皇様の使徒的勧告を読むというテーマから離れて、書いていきたいと思います。というより、あまりに色々なことがあって、じっくり準備する時間がなかったというのが本当の所です。それで、この忙しさはいったい何なのだろうかということが動機となったので、忙しさについて考えてみることにします。
 以前、2007年ごろだったと思いますが、私は大阪南地区のあるブロックを共同司牧していました。そのころとても忙しく、その忙しさの原因もはっきりしておりました。会議が多かったのです。その年代の前後数年間に私が出席していた会議(とそのようなもの)を思い出して列挙してみますと、司祭評議会、教区典礼委員会、教区信徒養成委員会、神学生養成担当者会議、教区月修委員打ち合わせ、教区司祭研修会準備委員会、大阪南地区司祭修道者の集い、南地区信徒奉仕職養成コース実行委員会、南地区大会実行委員会、小教区評議会、ブロックチームミーティング、小教区各委員会、広島巡礼準備会などがあります。そのころまじめだったので、すべての会合にほとんど休まず出席していました。こういうことを書くだけで当時のことを思い出して頭がクラクラしてなんだか血圧が上がりそうな気がしてきますが、やっぱり会議が多すぎた、忙しすぎたと思います。
 故アンデレ有馬志朗神父様が「心を亡ぼすと書いて忙しいと読む」と常々言っておられたのを思い出しました。
 使徒職において忙しいということは使命を果たしているという意味で素晴らしいことだと思いますが、深い内的生活がそれに伴っていなければ単なる空回りで人生が終わってしまうこともあると聖人たちや霊性の師などが教えていて、カトリックの教えの一部になっていると思います。
 神様の御旨を確実に行っていてそれが忙しいのであれば確かにそれは良い実を結ぶに違いありませんし、つらくても希望を持つことができます。しかし微妙なところで仕事中毒や高揚感、虚栄心や支配欲、陶酔感との区別が分からなくなって、いつの間にか道をそれていくこともあるかもしれません。そうなると労力の割には、実りも感じられず、確かな希望があるわけでもなく、疲れたり、教会離れしたり、いさかいが起こったりしそうです。 (つづく)
posted by カトリック明石教会 at 13:30| Comment(0) | 巻頭言

2018年06月02日

2018年6月号 巻頭言

巻頭言
池長大司教



 私は先日3月20日(火)に金祝を迎えた。もう司祭に叙階されて50年が過ぎたのかと思う。高等学校の時から、司祭の仕事につくことが憧れであった。高校1年から2年に移る春休みに六甲学園で黙想会に参加した時に、全く瞬時の出来事として一生涯、司祭として生きることが決まってしまった。その時から現在まで、この瞬間の自分に起こった事が、人間業ではないことをはっきり理解している。
 それまで、独身で一生を送ることを毛嫌いしていた。まさにその事が、思いがけず一瞬にして、自分にふりかかったのである。それまで自分自身は自分のものであり、何でも自分で決められるものと思い込んでいた。その思いが一瞬にして打ち砕かれてしまったのである。神様は被造物界の全てをご自分のものと思っていらっしゃるようだ。この思いに逆らえるものは誰もいないことが、この事が起こった瞬間に思い知らされた。
 司祭に叙階されて以来、私は色々なところで、いろいろな司祭の仕事を与えられてきた。広島教区の祇園教会の助任司祭として働き始めてから、東京のイエズス会で神学院の副院長となり、次に広島のイエズス会修練院の副院長、そして、同じ修練院で修練長を8年間つとめ、1987年4月からはイエズス会の日本管区長として6年間働き、その次に東京教区の麹町教会の助任として2年半ほどつとめ、1995年12月21日に思いがけなく、大阪教区の協働大司教となり、1997年5月10日には、大阪教区管区の大司教に就任、それを辞任してからは、2014年10月から淡路島に住み、神戸の西ブロックで協力者として働き、2015年4月から現在まで、神戸西ブロックの共同宣教者として働いている。
 司祭への召命を感じた時から、小教区教会の神父として働くことを理想として憧れていたので、現在の淡路島の洲本教会の司祭として働くことが、最高の喜びである。
生涯の終わりまで、ここで働きたいと願っている。

posted by カトリック明石教会 at 12:07| Comment(0) | 巻頭言