2017年12月04日

2017年12月号 主のご降誕おめでとうございます。(2017年12月に想うこと)

主のご降誕おめでとうございます。(2017年12月に想うこと)

申 繁時 神父


私たちは、今年も主のご降誕を心から待ち望み、そして、心にまたイエス様を誕生させることができました。
2017年前にあった本当の救いの出来事です。
なので、喜びをかみしめて救いの出来事をお祝いいたしたいと思います。
この思いを感じるまでには、待降節から回心を新たにして進めてきたことと思います。

・・・しかし申し訳ないお話を、その前に言っておきたいことが一つあります。・・・
この原稿は12月の初めに配られることなので、厳密な意味では、ご降誕前の記事となります。そして、私が書いた原稿のしめきりは11月19日なので、私はもっと前からこの原稿を用意していました。すると時間の経過には矛盾があります。つまり、クリスマス前、待降節前にすべてを未来予想していたことかのように書いた原稿だということです。
もちろんこの原稿を手にする皆さんも、前もって書かれていることくらいはお分かりかと思いますが、あえて12月の初めにいただいたならば、考えていただきたいことがあるということです。
それは、いまからもう一度、12月24日、25日の日を迎える前に、

「イエス様の誕生について、クリスマスについて、学んでほしいという想いです。」

待降節中に、@聖書を開く、A子供たちの読む絵本を開く、B黙想会にあずかる、Cゆるしの秘跡にあずかるなど、どれでもよいので、ひとつでよいのでやってみてください。
もちろん、今までやっていただいている方々はそのままで結構です。
ほんとうに単純なやさしいことでしょうが、どれでもいいです。
必ず今年のクリスマスはちがうものになると確信いたします。

そして、ご家族、お友達、親類などの親しい方々と共に、クリスマスミサにあずかってほしいと思います。お一人でもかまいません。お一人の方こそ、イエス様をそばに感じながら救い主、赤ちゃんのイエス様を見に来てください。
本当のこととして、全世界の救いがあっことをあらためて体感ください。

主のご降誕をお祝いいたします。
メリークリスマス。
posted by カトリック明石教会 at 13:13| Comment(0) | 巻頭言

2017年11月06日

2017年11月号 『愛のよろこび』を読む 1

;">『愛のよろこび』を読む 1
橋 聡


 前回まで「『福音の喜び』を読む」を連載していましたが、今回それを中断して、教皇様の新しく邦訳された使徒的勧告『愛のよろこび』を連載しながらご紹介することにします。この手紙は、家庭に関する二つのシノドス(世界代表司教会議)を受けて全教会に向けて書かれたものですが、いままでは、センセーショナルなことしか取り上げないマスコミからの情報が先行して、家庭についてのシノドスの全体像が分かりませんでした。が、教皇様のこの手紙によって現在のカトリック教会の家庭に関する司牧の方向性がはっきりするわけです。家庭は、わたくしたち日本に住む者にとっても緊急性のあるテーマですので、少しずつ本書を読みながら、それがわたくしたちにとっての糧になればと願っています。
 教皇様の御意図は、まず、今の家庭の状況に性急に結論を出したいという誘惑を自制するようにというところに向けられているようです。カトリック教会はキリストから真理を託されているわけですが、しかし現在の私たち一人一人が、すべてを細部まで見通しているわけでもないということではないかと思います。だから結論が出るまでに時間の経過や、経験、判断力の深まりなどが弱い私たちには必要なのでしょう。「このことは、聖霊がわたしたちを完全な真理に導くときまで、すなわち、わたしたちがキリストの神秘に完全に導き入れられ、キリストのまなざしですべてを見られるようになるときまで続くことでしょう」(3)。
 まず、聖書とカトリックの教えが述べられます。
 第一章では、聖書のみことばが味わわれます。最初に結婚と夫婦に関する根源的な創世記のみことばが3つ提示されています。「神はご自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された」(創世記1:27)。「自分に合う助ける者」(同2:18,20)。「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」(同2:24)。
 これらの御言葉に簡単な省察が加えられています。神の似姿に対比されるのは、一組の男と女の姿であり、愛し合い、いのちを生む夫婦は、創造主であり救世主である神を表すものになりうるということが示されます。(つづく)
posted by カトリック明石教会 at 14:40| Comment(0) | 巻頭言

2017年10月02日

巻頭言 10月号         池長大司教

 
8月の終わりから9月のはじめにかけて、大阪教区の司祭の黙想会があった。
 
この黙想会のために、イエズズ会の平林神父様が指導をして下さった。
上智大学で教父の教えを講義しながら、四谷のイグナチオ教会でも司牧をしておられる。黙想のための講和を聞いていても、神学的な知識の深さや豊かさが感じられる。私もさまざまな示唆を頂いた。やはり、淡路島の教会で働いていると、世の中の動きも教会の中の出来事も、つい疎遠になってしまいがちになる。その点からも、平林神父様との出会いは、非常に助けになった。
今回の場所は梅田教会であったが、いわゆる黙想の家と比べると、神様と静かに一対一で向き合うためには、やや難しかったと言えるかもしれない。自室がハートンホテルの部屋であったので、黙想の家の個室と比較すると、少し座って黙想するためには、普通のホテルの部屋の床に正座することになり、何となくしっくりしないものがある。けれども、ゆっくり個人的に祈れる時間があり、日常あわただしく過ごしている者にとって、喜ばしい時を持つことができた。雑ごとに振り廻されることなく、もっぱら神にのみ向かう時が持てるということは、司祭にとって、この上なく貴重な時である。
霊的にリフレッシュできて、とてもよかった。司祭にはこのような時が必要である。

posted by カトリック明石教会 at 16:31| Comment(0) | 巻頭言