2014年10月30日

2011年12月号「南アフリカの村で」

2011年12月号
         「南アフリカの村で」

司祭:松浦 謙


去年の11月、わたしは南アフリカのニューキャッスルという町にある教会に行きました。そこの教会の主任司祭が、病気の信者さんの家に訪問に行くというのでわたしも同伴することにしました。その神父はジープのような車にわたしを乗せて町の郊外に向かって走りました。途中2箇所で、教会の信者たちを拾って行きました。総勢10人近くが荷台に乗りました。女性も男性も、年を取った人も若い人もいました。みんな病気の婦人のことを心配してお見舞いに行くのです。20分ほどでこぼこの道を走った後、土の壁の家につきました。わたしたちは居間に迎え入れられ、用意された椅子や床に座りました。その家はまるで小さな教会のようになりました。

部屋の奥の古びたソファに60歳くらいの婦人が座っていました。彼女は重いエイズを病んでいるそうです。確かにやせて顔色は悪い。2歳くらいの女の子を膝にのせていました。4歳くらいの男の子が横に座っていました。たぶんお孫さんでしょう。天井からは小さな電球がぶらさがっていました。ちょうど雷がなり始め、そのためか電球の明かりが暗くなったり明るくなったりしました。司祭が小机に白い布をひろげて十字架をおき、ろうそくをともし、ご聖体をいれた小さな容器を安置しました。皆で声をあわせてスワヒリ語の聖歌を歌いました。聖書を朗読してしばらく沈黙しました。それから司祭は祈りのことばを唱えてご聖体を彼女にさずけました。祈りが終わると、家族の人が用意した飲み物とお菓子を皆で頂きました。皆殆どしゃべらなかったので、ただ屋根に落ちる雨の音だけが響きました。遠くから牛やヤギの鳴き声も聞こえてきました。不思議に平和でみたされた気持ちでした。静かに時が流れていきました。

神父は、「そろそろおいとましよう」といって立ちました。信者さん一人ひとりおばあさんのそばへ行き、手をとってことばをかけていました。彼女は本当によろこんでいました。目に涙をためていました。「心配いりませんよ。神様があなたを癒してくださいます」そう言ってお別れをし、家を後にしました。死が近いことを意識しているこの人のため、皆が行って祈る。それは彼女にとって大きな希望と励ましだったに違いない。南アフリカの小さな村での体験は今もわたしの心に残っています。もうすぐクリスマスが来ます。わたしたちのもとに救い主イエスが来てくださった。このことを、あの日わたしは強く確信しました。


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2011年11月号《ごらんよ空の鳥》

2011年11月号
          《ごらんよ空の鳥》

司祭:レクダク・ゲラドス(ジェリー神父)


 私の生まれ育った所は、インドネシアのトラジャにある静かな村です。都会から、ちょっと山の方に離れた所です。周りにはまだ豊かな緑が残っていてます。毎朝、目覚めるとすぐ、いろんな空の鳥の’おはよう’のご挨拶が聞こえてきます。私は家にいるときには、朝の美味しいトラジャコーヒーを飲みながら、よくその鳥たちの美しい姿をつくづく眺めています。その鳥たちは悠々と空を飛んで遊んでいるように見えますが、彼らはその日の食べ物を得るために朝早くから必死に枝から枝へ飛んでいるのです。

この故郷の景色を思い浮かべますと、’思い悩むな’という福音書のイエス様の言葉が心に響いています。イエス様は、「自分の命のことで何を食べようか、何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値のあるものではないか。」と言われました。(マタイ福音書6章25〜26節)。

神様が大自然の中で鳥たちを養ってくださる、その神様の養い、守り、導きの恵みを鳥たちを通して見なさいとイエス様は言っておられるのです。そして、それぞれのところに、「あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか」と加えられています。神様が空の鳥を養い、導いてくださるなら、私たちにはなおさら、それ以上の養い、導きを与えてくださらないはずがない、私たちは、鳥よりもはるかに価値のあるものだ、そうイエス様は言っておられるのです。ここに語られているのは、神様が、私たち人間のことをどれだけ大事に思ってくださるか、ということです。

このイエス様の言葉には、命と体、その私たちの本質的なものを養い、支え、はぐくんでくださる、その恵みに信頼して、生きていく、その私たちの信仰の歩みは、全く思い悩みのない、のんきなものなのかというと、そうではありません。信仰を持ち、神様に信頼して生きる歩みにおいても、その日その日の苦労はあるのです。思い悩みがあります。しかしその思い悩みを背負っていく力を与えてくださるのです。自分の命と体のことを、本質的に天の父なる神様にお任せして、力を与えてくださるのです。自分の命と体のことを、本質的に天の父なる神様にお任せして、信頼の内に生きることが出来るのです。私たちにそのような歩みを与えるために、主イエス・キリストはこの世にお生まれになり、そして今、「思い悩むな」と私たちに語りかけておられるのです。

この主キリストの言葉に信頼して、これからの人生のたびを幸せに歩むことが出来るように天の父に願いましょう。

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2011年9月号『私たちに必要な糧を今日与えてください』

2011年9月号
  『私たちに必要な糧を今日与えてください』(マタイ6:11)
司祭:レクダク・ゲラドス(ジェリー神父)


 キリスト者にとって、主の祈りは一番身近な祈りだと思います。子供たちも教会学校で最初に覚えた祈りは主の祈りです。あるいはキリスト教主義の学校や幼稚園においても、主の祈りは覚えさせられますから、洗礼を受けていない人でも、この祈りは頭のどこかに残っている、という人も多いと思います。主の祈りは神である主イエスご自身が「こう祈りなさい」と教え、与えてくださったものです。

この祈りの後半のところに「私たちに必要な糧を今日与えてください(マタイ6:11)と主の祈りを食べ物に困らない毎日の生活の中で切実に祈りにくくなるのではないでしょうか。別に神様にお願いをしなくても食べ物に困ることはないのです。こういう中で、食事を神様に願い求め、この食事は神様から与えられたものだと感謝して食べるということはなかなか実感となりにくいことです。神学生の時代、実習で貧しい人々と一緒に暮らしていたとき、そうではありませんでした。実に、その日の食べ物のために必死で働かなければならない人々がたくさんいたのです。「今日の糧を与えてください」と、神様に祈り求める、そうしてようやく、食事ができたなら、神様の恵みを感謝するというのが実感だったのです。

毎日の食事に困らない私たちには、この祈りの意味を失っているでしょうか。私は決してそんなことはないと思います。食事に困らない状況の中で、私たちの魂を本当に養い、育て、力を与える主食は、食べ物が満たされれば得られるというものではありません。食べ物は確かにとても大切であり、なくてはならないものですが、しかし、私たちが本当に元気に力強く生きていくことができるための糧は、それは別のものなのです。「私たちに必要な糧を今日与えてください」という祈りは、そういう魂の糧、私たちを生かす糧を求める祈りであると言うことができます。その糧を天におられる私たちの父である神様に祈り求めるようにとイエス様は教えてくださったのです。

私たちの人生は、神様が与えてくださる糧によってこそ養われるのだということです。イエスは「人はパンだけで生きるものではない、神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。(マタイ4:4)神様の御言葉を聞き、それに従っていくといことにこそ、本当の糧がある。本当に良いもので養われ、豊かに生きるための糧があるのだというのです。神のみ言葉こそ本当に必要な糧だというのです。


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