2014年10月31日

2013年10月号《 輝いて生きる 》

2013年10月号    
《 輝いて生きる 》

司祭:松浦 謙

 明石教会では9月15日に敬老のお祝いが行われました。名簿上では、75歳以上の方が161名もおられるそうです。シルバー世代とでもいいましょうか、お年寄り、ご高齢の方たちが元気で輝いて生きて欲しいと思います。

日本語には「余生を送る」という言い方がありますが、「余った生」というのはまるで残り物のようでどうも前向きな気持ちになれません。わたしたちがこうして今を生きているということは神様からのすばらしい恵みです。このかけがえのない一時一時を生きると言う点では幼い子も、青年も、働き盛りの人も老人も病人も皆同じです。もちろん年をとると、身体的に衰えるので若い頃のようにはいきません。でも逆に、元気な時には出来なかったこと、思いもよらなかったことが老いてこそ経験できるというメリットもあります。精神科医で作家のなだいなださんは物忘れや身体が不自由になってきたとしても、それはそれで、今までにない新しい冒険ができる。発見もあるから面白いと仰っていました。失うということはマイナスのイメージがあります。しかし新しい生き方へのステップとなるものです。アブラハムが神様から呼ばれて新しい旅に出た時、今までの住み慣れた土地や生活を全部捨てていくのですが、神様への信頼の心が、彼にすばらしい恵みと祝福をもたらしました。その時、彼は75歳でした。年をとるとかつての自分のようには生きられません。でもまた新しい世界が待ち受けています。高齢者の持ち味はこれまで70年、80年生きてきた豊かな人生経験です。是非、お年よりの視点から、次世代に、メッセージを発信して欲しいと思います。若い人たちが元気になれるように。

神学校には昔から“恩人制度”というものがあり、司祭をめざす神学生一人ひとりのためにスポンサー(保証人)のようになって祈りと犠牲をささげることになっています。わたしの神学生時代の6年間の恩人は、カナダのモントリオール郊外にすむバース・ハメルという80歳近い女性でした。北米に行く機会があったので住所をたよりに訪ねて見ました。毎朝欠かさずミサに行き、昼間は養護老人ホームのボランティアにも行かれる銀髪のおばあちゃんでした。わたしを見て手を握り本当に喜んでくれました。自分の部屋の机の上には、ちゃんとわたしの写真が飾ってありました。今でも忘れられません。

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2013年7月号「フランス・スペイン巡礼」

2013年7月号            
フランス・スペイン巡礼

司祭:春名 昌哉

   5月20日から29日までフランス・スペイン巡礼に同行司祭として参加しました。20人の方が参加され、素晴らしい黙想と祈りの時間を過ごすことができました。

 まずフランスに入りその日はパリで1泊し、翌日ルルドへと向かいました。ルルドでの3日間はあいにくの雨でしたが、そのためか巡礼者は少なく、沐浴もほとんど待つことがありませんでした。聖ベルナデッタに聖母マリアが出現された場所で、ミサ、十字架の道行き、ろうそく行列と充実した時間を過ごすことができました。

 ルルドからピレネー山脈を越えてスペインに入り、最初の目的地であるエンビニ村を訪れました。ここは山間の小さな村で、住民は21人しかいません。本当に小さな村ですがそれでも聖ハイメ・ヒラリオという聖人が生まれたところです。風の音と鳥の鳴き声以外は何も聞こえない静かなところで、まわりの風景も素晴らしく、心が洗われる気がしました。

 その後、モンセラートへ移動しました。1000年を超える伝統を持つベネディクト会の修道院です。モンセラートは「のこぎり山」の意味で、奇妙な形をした岩があちこちに見られます。ここで黒いマリア像が発見され、現在は修道院の聖堂に安置されています。修道院の祈りに参加したり、ロザリオの15玄義を黙想したりし、有意義な時を過ごすことができました。

 モンセラートからほど近いマンレッサには、イエズス会の創立者である聖イグナチオ・ロヨラが「霊操」を執筆した洞窟があります。現在はその洞窟の上に聖堂や修道院が建てられています。洞窟は小聖堂になっていますが、そこに聖人たちのモザイク画が描かれています。その中の一人に高山右近の姿も描かれています。明石にもゆかりのある日本の偉大な信仰者の姿が、ヨーロッパにまで伝えられていたことに深い感動を覚えました。
 最後にバルセロナでサグラダ・ファミリア教会を訪ねました。ちょうどバルセロナ教区の三位一体の主日のミサが枢機卿様の司式で行われていました。100年を超える工事が続いている教会でのミサは、古さと同時に新鮮さを味わえるものでした。

 今回の巡礼という素晴らしい時間を与えてくださった神様に感謝したいと思います。

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2013年6月号 「刈り残された草むらに」  

2013年6月号           
「刈り残された草むらに」  
                                    
助祭:松永 敦

 父親が十二歳の息子に言いました。
「庭の草刈りをしてくれるかい?終わったら、お小遣いをあげるよ。」
 少年はうなずき、すぐに草刈りを始めました。一生懸命、心を込めて作業をしました。そのおかげで夕方までに庭はきれいに刈り込まれました。ただ庭の一角を除いて・・・・。
 それを見た父親は言いました。
 「まだ終わっていないじゃないか。これじゃお小遣いはあげられないよ。」
 「買いたいものがあるんだけど・・。」と息子はそう言ったきり黙りこんで、それでも再び草刈りをしようとしませんでした。
  不思議に思った父親が刈り残した草むらをのぞいてみると・・そこには大きなヒキガエル。少年はヒキガエルのことを思い、そこだけ刈り残したのでした。

  愛のあるところに秩序の乱れが伴う。完璧な秩序を推し進めれば世界は墓地と化す(A・デ・メロ)。このお話を読んで、以前ある野宿支援のメーリングリストでいただいたメールを、私は思い出しました。心揺さぶる内容なので、その一部をご紹介いたします。
  
  二月にA区で亡くなったMさん、私の受けた感じでは知的障がいのボーダーラインにいた方だったように思っています。

  ようやく受け入れ診察してくれた病院でも、お医者さんや看護士さんは、受け答えができないMさんに怒鳴り続けていました。後日面会に行ったときには、年配の看護士さんが私に対しても「ホームレスなんてお腹空いているだけなんだから、救急車呼んで病院に入れるなんて迷惑だ。」とか「あんたたちでホームレス用の病院を作りなさい。」とか、散々ののしっていました。

  私はともかくようやく入院できたMさんは、相手に口答えする能力も持たず、おそらく私の知らないうちに散々ののしられあざけられ、独り惨めに死んでいったのでしょう。

  これ以上がんばることができない人が、自分の努力でどうしようもない状態の人が、生きていけない世の中は間違っています。特に障がいを持った人や、子どもたちが惨めに死んでいくような社会は、絶対におかしい。イデオロギーや主義主張を超えて、「おかしい」と声をあげなくてはならないのではないでしょうか。
 
 聖体拝領は一日に一度が原則ですが、マザーテレサは一日に二度聖体拝領をしていたといいます。一度目はミサの中でパンの形でいただくご聖体として。二度目は路上で倒れている人を彼女の施設に受け入れるたびに、その人をご聖体・キリストとして拝領していると考えていたようです。私たちの日常生活に当てはめるならば、このことは路上の人に限らなくてもよいと思います。では、皆さんは日々の生活の中で出会う人々のうち、誰をご聖体として拝領することだと考えられるでしょうか。

 毎日曜日に共同体としてともに捧げているミサ。奉仕者が「キリストの体」と言えば「アーメン」と答えて拝領し、ひとつの民として結ばれます。キリストと私たちを結び、ひとつの体とします。マザーのいう二度目の拝領の時も「アーメン」と力強く答える教会。そんな教会をともに作っていければと思います。

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