2014年10月31日

2014年10月号「教皇フランシスコ『福音の喜び』を読む」

教皇フランシスコ『福音の喜び』を読む

神戸西ブロック協力司祭 高橋 聡

 皆さんこんにちは。高橋神父です。最近パパ様は福音宣教を願って、新しい手紙を発表されました。『福音の喜び』です。フランシスコ教皇様は大胆な行動で教会と世界を驚かせていらっしゃいますが、その新しい息吹の源を少しでも知るよすがとしてこの本を読んでいきたいと思います。特に、福音宣教が世界でも最も停滞している(?)日本にあって私たちにこれから歩むヒントが得られるかもしれません。それで自分なりの読み方で皆さんに紹介していきますが、専門的に「正しく」解釈したものではありませんので、ご不満のある方もおられるかも知れませんがお赦しください。

 パパ様は最初に教会の改革ということをおっしゃっています。今の教皇様は、ものすごい勢いでバチカンの改革をしておられるといううわさが聞こえてきていますが、私たちに対しても、改革ということをまず言われております。しかし、改革のための改革ではなさそうです。それは「教会の宣教の改革」といわれています。朝から晩まで組織の改革をしなさいという意味ではなく、私たちの態度の改革、わたしたちの人との接し方の改革ということが、言われているように思います。それはどういうことかというと「出向いていく教会」になれということです。

 「出向いていく教会」神さまはわたしたちを招かれた後で、「行け」と言われるというのです。神様の望まれるところに「行く」こと。教皇様の言葉は厳しいです。「つまり、自分にとって快適な場所から出て行って、福音の光を必要としている隅に追いやられたすべての人に、それを届ける勇気をもつよう招かれているのです。」けれどもそれは、私たちに歯を食いしばって自分の努力だけでやれということではなく、主が共にいてくださるからこそできる業なのです。「しかし、これを英雄的で個人的な課題であると思ってはなりません。なぜならそれは、私たちが発見し、理解しうる以上に、何よりもまず主のわざだからです。」「神はご自分とともに働くようわたしたちを招き、聖霊の力によって私たちを駆り立てます。」「主導権はいつも神にある」。ということは、まず、神様の声に耳を傾けることから始まるのですね。そして神さまに信頼して、言われた道に一歩踏み出す。このことから私たちと教会の改革、刷新が始まっていくのですね。そのように思えます。私たちの中にある、霊の火を消さないようにしましょう。私たちの良心のささやきを消さないようにしましょう。その中に神様は大きな期待を込めておられるかもしれないからです。そう考えると、パパ様のおっしゃっていることは、古くて新しい真理です。アブラハムや、モーセの時代から神さまが語りかけられて導かれたその道を、私たちもまた微力ながらも、しかし、私たちに与えられたこの時に関しては、かけがえのない、選ばれたものとして、歩んでいくことに他ならないからです
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2014年9月「典礼とは 」

〜〜〜 典礼とは 〜〜〜


司祭:松浦 謙

わたしたちはミサをはじめ、洗礼式、堅信式、葬儀、結婚式などを総じて“典礼”と呼んでいます。ではそもそも“典礼”の意味は何なのでしょう。

一般社会において種々の式典があります。成人式、入学式、卒業式、オリンピックの開会式、平和祈念式典・・・。これらには、いずれも、一定の順序、つまり、式次第に沿った流れがあります。国歌を歌ったり、挨拶があったり、何かの授与があったり、旗をあげたりなど、シンボリックな要素も多くあります。行進や荘厳な入退場などもあるでしょう。これらは、特別な意味のある日、記念すべき時、人生の節目になる時などに行われ、それに与る人たちに、その意義を思い起こさせ、精神を高め、次のステップに向かう心構えを確かなものにします。

 では、わたしたちが教会で行う典礼祭儀はどうでしょう。いうまでもなく、教会の典礼はこれらの式典とは根本的に異なった性格のものです。それは、わたしたちがささげる公の礼拝であり、同時に神ご自身のわざなのです。わたしたちがそれに参加することによって、主キリストに出会い、比類のない恵みをいただけるのです。

神様は目に見えません。けれども、わたしたちが目で見て、耳で聞き、手で触れ、香りを感じ、実際に味わうことのできるもの、たとえば、水、油、パン、葡萄酒、ローソクの火などの目に見えるしるしと、それに伴うことばや動作を通して、神が、実際に働かれ、恵みをくださるのです。わたしたちはそれらを秘跡と呼んでいます。小麦粉で作られたホスチアといわれる何の変哲もないパンは、ミサにおいて、キリストのとうとい体にかわります。それをともにいただくわたしたちはキリストとひとつに結ばれます。それを“わたしたち自身の聖変化”と形容した教父もいます。ミサの典礼はなんと神聖で貴い行為でしょうか。

イエスさまは人間としてこの世に生きられました。イエスさまに出会った人は神様に直接出会ったのです。もちろん、わたしたちは、ユダヤのパレスチナで生活していた人々のように、イエス様に会えるわけではありません。けれども、今、異なった仕方で確かに復活したキリストに出会うことができるのです。それは秘跡を祝う典礼においてなのです。
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2014年7月「続・カンボジア再訪」

続・カンボジア再訪

司祭:春名 昌哉

 先日、『つながり』にカンボジア再訪の話を書きました。残念ながら字数の都合がありすべてを書くことができませんでした。そこで今回は『つながり』の続編を書きたいと思います。

『つながり』にも書いたように、カンボジアは長期間にわたる内戦の結果、非常に貧しい国になってしまいました。近年、大都市部では経済成長が著しく、開発も進んできていますが、地方はまだまだ厳しい状況に置かれています。タオム村はアンコールワットのあるシェムリアップから1時間半ほど離れたタイとの国境に近い辺境の村です。前回訪れたときは、油断すると舌を噛みそうになるようなでこぼこ道を通っていきましたが、今回は舗装はされていないものの整備された道に変わっており、この地方にも大きな変化があったことを実感します。

タオム村には教会がありますが、壁は銃痕で穴だらけになっており、このような辺境の村にも内戦の影響が及んでいたことを知らせてくれています。ここでもJLMM(日本カトリック信徒宣教者会)のスタッフが、子どもたちにおかゆを食べさせるプロジェクトや識字教育を行っています。道は整備されて良くなりましたが、雨期になるとこの道は水没してしまい、買い物に出かけることも困難になります。そういう状況では買い物に出かけることも難しく、村でとれる空心菜だけが食料になるそうです。そのため栄養バランスは非常に悪く、子どもたちが成長する上で必要な栄養を取ることができません。子どもたちが食べているおかゆには肉や野菜など、必要最低限の栄養がとれるようになっています。また青年たちのために図書館が作られており、勉強ができる環境も徐々にととのってきています。現地の人の話では、昨年この村から初めて大学に進学した青年がいると、とてもよろこんでおられました。

 カンボジアは急速に発展していますが、そこから取り残された人たちもたくさんいます。もちろんこのような現実はカンボジアだけではなく、多くの発展途上国に見られることです。世界中にはたくさんの苦しむ隣人がいます。このような現実を目の前にしてキリスト者である私たちに何ができるかを考えましょう。

キリストが示してくださった愛の生き方を実践し、一人でも多くの人の支えになることができるよう、そしてそのために必要な恵みと勇気が与えられるよう祈り求めましょう。

※『つながり』2014年6月号
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