2018年07月02日

20181年7月 忙しさについて(1)

忙しさについて(1)

高橋 聡

 今月も、教皇様の使徒的勧告を読むというテーマから離れて、書いていきたいと思います。というより、あまりに色々なことがあって、じっくり準備する時間がなかったというのが本当の所です。それで、この忙しさはいったい何なのだろうかということが動機となったので、忙しさについて考えてみることにします。
 以前、2007年ごろだったと思いますが、私は大阪南地区のあるブロックを共同司牧していました。そのころとても忙しく、その忙しさの原因もはっきりしておりました。会議が多かったのです。その年代の前後数年間に私が出席していた会議(とそのようなもの)を思い出して列挙してみますと、司祭評議会、教区典礼委員会、教区信徒養成委員会、神学生養成担当者会議、教区月修委員打ち合わせ、教区司祭研修会準備委員会、大阪南地区司祭修道者の集い、南地区信徒奉仕職養成コース実行委員会、南地区大会実行委員会、小教区評議会、ブロックチームミーティング、小教区各委員会、広島巡礼準備会などがあります。そのころまじめだったので、すべての会合にほとんど休まず出席していました。こういうことを書くだけで当時のことを思い出して頭がクラクラしてなんだか血圧が上がりそうな気がしてきますが、やっぱり会議が多すぎた、忙しすぎたと思います。
 故アンデレ有馬志朗神父様が「心を亡ぼすと書いて忙しいと読む」と常々言っておられたのを思い出しました。
 使徒職において忙しいということは使命を果たしているという意味で素晴らしいことだと思いますが、深い内的生活がそれに伴っていなければ単なる空回りで人生が終わってしまうこともあると聖人たちや霊性の師などが教えていて、カトリックの教えの一部になっていると思います。
 神様の御旨を確実に行っていてそれが忙しいのであれば確かにそれは良い実を結ぶに違いありませんし、つらくても希望を持つことができます。しかし微妙なところで仕事中毒や高揚感、虚栄心や支配欲、陶酔感との区別が分からなくなって、いつの間にか道をそれていくこともあるかもしれません。そうなると労力の割には、実りも感じられず、確かな希望があるわけでもなく、疲れたり、教会離れしたり、いさかいが起こったりしそうです。 (つづく)
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2018年06月02日

2018年6月号 巻頭言

巻頭言
池長大司教



 私は先日3月20日(火)に金祝を迎えた。もう司祭に叙階されて50年が過ぎたのかと思う。高等学校の時から、司祭の仕事につくことが憧れであった。高校1年から2年に移る春休みに六甲学園で黙想会に参加した時に、全く瞬時の出来事として一生涯、司祭として生きることが決まってしまった。その時から現在まで、この瞬間の自分に起こった事が、人間業ではないことをはっきり理解している。
 それまで、独身で一生を送ることを毛嫌いしていた。まさにその事が、思いがけず一瞬にして、自分にふりかかったのである。それまで自分自身は自分のものであり、何でも自分で決められるものと思い込んでいた。その思いが一瞬にして打ち砕かれてしまったのである。神様は被造物界の全てをご自分のものと思っていらっしゃるようだ。この思いに逆らえるものは誰もいないことが、この事が起こった瞬間に思い知らされた。
 司祭に叙階されて以来、私は色々なところで、いろいろな司祭の仕事を与えられてきた。広島教区の祇園教会の助任司祭として働き始めてから、東京のイエズス会で神学院の副院長となり、次に広島のイエズス会修練院の副院長、そして、同じ修練院で修練長を8年間つとめ、1987年4月からはイエズス会の日本管区長として6年間働き、その次に東京教区の麹町教会の助任として2年半ほどつとめ、1995年12月21日に思いがけなく、大阪教区の協働大司教となり、1997年5月10日には、大阪教区管区の大司教に就任、それを辞任してからは、2014年10月から淡路島に住み、神戸の西ブロックで協力者として働き、2015年4月から現在まで、神戸西ブロックの共同宣教者として働いている。
 司祭への召命を感じた時から、小教区教会の神父として働くことを理想として憧れていたので、現在の淡路島の洲本教会の司祭として働くことが、最高の喜びである。
生涯の終わりまで、ここで働きたいと願っている。

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2018年05月07日

2018年5月 2018年5月に想うこと

2018年5月に想うこと

                         
担当司祭 申 繁時

2018年4月1日のご復活から、私たちは「復活節」の歩みを進めています。
「聖霊降臨の祭日」(今年は5月20日)までの歩みです。50日間あります。
そして、この復活節は新しく洗礼を受けられた方々にとっても大切な時です。その役割は、代父母さんにも重要な役割があります。それは、今年であれば洗礼を受けられた方々を毎週エスコートしてあげること。隣に座ること。また、各小教区共同体は聖堂に場所を設けてあげて、フォローしてあげることを必要とするのです。
はっきり言って司牧者の私自身も完全にそのことは抜けていたと反省します。なぜならば、洗礼を受けるまでは、事細かく用意と準備をさせてもらいますが、洗礼式が終わると次の週からは自由に。という状態を続けてきたように感じるからです。と同時に、洗礼式が卒業式のように、教会に来なくなる状態が見え隠れしていることも、今の教会の現状かと感じてしまいます。
なので、洗礼式後も少なくとも聖霊降臨までは、共同体が受洗者方を見守ることが大切なことであり、教会離れを防ぐためにも温かい見守りが必要ではないでしょうか。もちろん、聖霊降臨までではありません。生涯の生まれ故郷としての教会共同体ですので、つながりを持ち続けることが重要です。

実は、私自身も洗礼式が卒業式だった信者でした。洗礼を受けたあと半年以上主日ミサに行きませんでした。(告白いたします・・・)
洗礼の意味をまだ深く味わっていなかったときで、神さまの水の清めをいただいたので、もう大丈夫と勘違いして主日ミサに行かなかったのです。半年後気になってこっそり、主日ミサに隠れるようにあずかりましたら、洗礼を授けてくださった当時の主任神父さんに見つかり、こっぴどく叱られました。
「あなたは何を考えているのか!」「あなたのような信者ばかりだ!!」と。
信者の代表のように叱られました。(懐かしい思い出です?)
それからは、主日ミサにあずかれるように準備をしました。しかし、私が教会に行くことが好きになったのは、神さまへの信仰はもちろんですが、教会共同体の皆さんの心遣いでした。小さな教会でしたが、日曜日は楽しくさせていただき、親戚のおじさんとおばさんに毎週会える雰囲気があったからです。
そして、将来その劣等生信者?がとうとう神父までなったのですから。・・・
どうか、教会共同体のみなさん、代父母のみなさん、もう一度この復活節の間、神さまの大きな恵みをいただいて教会から離れている兄弟姉妹のために祈ってください。もし可能であれば連絡してあげてください。「元気?」の一言でいいので。必ずもう一度、教会に一緒に集う時がくるはずです。
posted by カトリック明石教会 at 12:25| Comment(0) | 巻頭言