2017年06月03日

2017年6月号 「2017年6月に想う事。」

「2017年6月に想う事。」

                      
ブロック担当司祭 申 繁時


神戸西ブロックに派遣されて4月から2年目になります。2年目にして早くも人事があり協力司祭でした後藤神父さまが移動になりました。現在ブロック4小教区を3司祭で主日ミサを中心に司牧活動を行うことになりました。今年はいろんな工夫を考えて行かないといけないのかもしれません。
そこで、いま想うことを味わってみたいと思います。司祭になって丸10年が経ちました。
ほんとうに早いなと感じます。この10年を想うと、それは時間が経つことと共に時代の変化にも共通するものがあるように思います。それは、まわりのいろんなことの変化、便利さを求める世界があり、人もそれに当たり前のようについていくようになるところがあります。決してそのことは悪くはないと感じますが、それがすべてではないようにも感じます。その間(はざま)にはなにがあるのか。

ほんとうに大切なこと(もの)は、時間や時代を超えても変わらないものではないかと感じます。教会生活はその点において、その答えをつかんでいるように思います。
時間が経ち、時代が変わっても、必ず神さまが答えてくれることです。またそのことを信じて良いことです。どんなに困難で苦しいことがあっても、信じることによって神さまが答えてくれることです。
最初に言いました人事の変化も、簡単には解決できないことではないでしょうか。教会自身も、司祭の不足、司祭信徒の高齢化、若者不在、教会建物の老朽化、などなど、いろんな問題を抱えています。そこに希望をもっていないことではありませんが、不安材料には感じます。神さまにこころから祈り、その不安材料をひとつひとつ解決していくことが中心になりますが、反面解決策は簡単には見つからないことも理解します。具体的にどうすればよいのか?

目の前の現実をひとつひとつかみしめていくこと。受け入れること。できることを考えてみること。そして実際にやってみること。失敗したら顧みる(次につながる反省のこと)こと。皆さんがこれまで歩んで来られた人生と同じで、確実かつ確かな方法なのです。
この体験と経験こそが、神さまからいただいた知恵ではないでしょうか。
いまこそその知恵をだしあって協力することがまずは最善かもしれません。
では、あらためてその最初にすることはなにか!?

それは、積極的になることです。苦しくて困難であっても、神さまを信じて、積極的になってみることです。しかし、無理をすることではなく、自然に積極的になることです。
このことが、教会が言っている「こころをひらく」ということなのですから。確かに簡単に自然に積極的になることは矛盾していることと感じるでしょう。しかし、「こころをひらく」とき、あとは神さまが働いてくださいます。
聖書には、こんな出来事がありました。
集まった5000人を数人の弟子たちに食べさせなさい、とイエスさまが言います。弟子たちは当然不可能と考えていました。「2匹の魚と5つのパン」のお話しです。しかし、イエスさまは祈り弟子たちに協力することを促すと、5000人は満腹し、まだたくさん食べ物が余るほどの出来事を体験したのです。
それは疑わず信じて協力した、自然に積極的にこころをひらいた弟子たちの体験です。・・・

神戸西ブロック2年目ですが、お互いに協力しながら歩んでいきましょう。
posted by カトリック明石教会 at 12:01| Comment(0) | 巻頭言

2017年05月06日

『福音の喜び』を読む 10 橋 聡

 つぎに、社会風潮などの文化的な危機について考察が続けられていきます。まず迫害、弾圧です。「場合によっては、その課題は、信教の自由に対する公然たる攻撃や、キリスト者に対する新しいかたちでの迫害として現れます。それらが、憎悪や暴力という警戒すべき段階にまで達している国もあります。」あるいは無関心が広がっているという危機です。「各人が自分の主観的な真理だけを主張したがるような文化では、市民が個人の利益と願望を乗り越えて、共通の目標に参加することが難しくなるのです」。
 社会的なレベルでは、私たちはみんなの善、善益ということをいつも念頭に置いておかなければならないと教会の社会教説では言われています。そしてそれは主観的な真理の主張、うそを並べ立ててあたかもそれが真実であるかのように作り上げていく情報操作などの上には築き上げることができないことは明らかです。ある程度の客観的真実がマスメディアなどで取り上げられることによってはじめて、みんなが共通の認識で話し合うことが可能となるのだと思われます。正義の土台として、真理、真実が追及されなければならないはずなのです。わたしたちの国でも報道の自由度のランキングがかなり下がってきているそうです。これが国民の多くに一抹の不安を感じさせるものになっています。迫害、弾圧への前奏曲にならないようにと願わずにはいられません。
 こけらのマスメディアの影響について、アフリカの司教団やアジアの司教団の文書を引用しながら、こうも指摘されています。「多くの国が、経済的には発展しつつも倫理面は弱くなっている他の文化の風潮によって侵略され、自国文化の根源が加速度的に傷つけられています。…このことは、しばしば社会的コミュニケーションの分野にも当てはまり、この分野を管理し、コントロールする『センター』の大半が北半球に置かれているために、発展途上国の抱える問題や優先すべき問題に相応の、きめ細かい配慮を欠くという事態が生まれ、また彼らの文化的特質を十分に尊重するという態度が時に忘れられることとなっています。…マスメディアとエンターテインメントの負の側面が現れ、伝統的な価値観が脅かされているのです」。
posted by カトリック明石教会 at 10:45| Comment(0) | 巻頭言

2017年04月02日

自己紹介 7     池長 潤 名誉大司教

自己紹介 7     
池長 潤 名誉大司教


 私が司祭への召命を受けたのは、高校1年から2年にあがる春休みであった。
 まったく、瞬時的な出来事であり、それまで自分で作っていた人生計画を完全に砕いてしまったのである。自分からは一番嫌っていた独身生活で生涯を終える神父の道など、もってのほかだったものが、神様が、一瞬に粉砕されてしまった。
 この召命を受けた瞬間、想像力が司祭として生きている、ある場面を生き生きと映し出した。それは、日曜日にミサに与って帰ってゆく信者に挨拶している自分の姿であった。それからというもの、神父になる限りは、司牧者の仕事をしたいという願望が心に宿り、一生、司牧の活動をやってゆきたいという思いが定着した。修練院の時も、哲学を勉強しているときも、神学を学ぶ時も、この司牧者として生活してゆきたい思いはずっと続いた。
 ところが、私の意に反して、司祭叙階を受けてから現在に至るまで、ほとんど、管理職に廻された。修練長、副院長、院長、管区長、そして最後に大司教にされてしまった。大司教の職務を降りてから淡路島の洲本教会に派遣されるまではほとんど管理職であった。それまでは、広島の祇園教会で宣教司牧に専念する事ができた。自動二輪と普通車の二つの免許をとって、教会の宣教司牧に専念することが出来た。この神父になったばかりの3年間は、本当に幸福だった。カテキズムのクラスを15も持って毎晩、食後に2件の家族を廻って、教理を教えることができた。その他も司牧的な仕事に追われて過ごした。この初めの3年から後はすべて管理職を続けてきた。
 2014年に大阪教区の大司教を終えて、現在の洲本教会に任命されて、宣教司牧がようやく出来るようになって、今は本当に幸せである。もう歳が79才であり、もうすぐ80才になるが、幸いまだ元気なので、最後まで今の仕事を続けてゆきたい。
 洲本教会はすばらしい教会で、難しい人が一人もいないので、和気あいあいとして楽しい場所だ。フィリピン人が40人ほどおり、日本人よりも多く、日曜日のミサは全部で70人ぐらいが集まる。アフリカのカメルーンから一人、その他ベトナム人やブラジル人がいる。だんだんと日曜日にミサに与る人の数が、増えてくるのもうれしいことだ。このクリスマスにも幼児洗礼が一人、大人の洗礼が一人あったことも、大きな喜びであった。
 これからも皆でつくりあげてゆく、すばらしい教会になって欲しいものだ。
posted by カトリック明石教会 at 14:53| Comment(0) | 巻頭言