2017年05月06日

『福音の喜び』を読む 10 橋 聡

 つぎに、社会風潮などの文化的な危機について考察が続けられていきます。まず迫害、弾圧です。「場合によっては、その課題は、信教の自由に対する公然たる攻撃や、キリスト者に対する新しいかたちでの迫害として現れます。それらが、憎悪や暴力という警戒すべき段階にまで達している国もあります。」あるいは無関心が広がっているという危機です。「各人が自分の主観的な真理だけを主張したがるような文化では、市民が個人の利益と願望を乗り越えて、共通の目標に参加することが難しくなるのです」。
 社会的なレベルでは、私たちはみんなの善、善益ということをいつも念頭に置いておかなければならないと教会の社会教説では言われています。そしてそれは主観的な真理の主張、うそを並べ立ててあたかもそれが真実であるかのように作り上げていく情報操作などの上には築き上げることができないことは明らかです。ある程度の客観的真実がマスメディアなどで取り上げられることによってはじめて、みんなが共通の認識で話し合うことが可能となるのだと思われます。正義の土台として、真理、真実が追及されなければならないはずなのです。わたしたちの国でも報道の自由度のランキングがかなり下がってきているそうです。これが国民の多くに一抹の不安を感じさせるものになっています。迫害、弾圧への前奏曲にならないようにと願わずにはいられません。
 こけらのマスメディアの影響について、アフリカの司教団やアジアの司教団の文書を引用しながら、こうも指摘されています。「多くの国が、経済的には発展しつつも倫理面は弱くなっている他の文化の風潮によって侵略され、自国文化の根源が加速度的に傷つけられています。…このことは、しばしば社会的コミュニケーションの分野にも当てはまり、この分野を管理し、コントロールする『センター』の大半が北半球に置かれているために、発展途上国の抱える問題や優先すべき問題に相応の、きめ細かい配慮を欠くという事態が生まれ、また彼らの文化的特質を十分に尊重するという態度が時に忘れられることとなっています。…マスメディアとエンターテインメントの負の側面が現れ、伝統的な価値観が脅かされているのです」。
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2017年04月02日

自己紹介 7     池長 潤 名誉大司教

自己紹介 7     
池長 潤 名誉大司教


 私が司祭への召命を受けたのは、高校1年から2年にあがる春休みであった。
 まったく、瞬時的な出来事であり、それまで自分で作っていた人生計画を完全に砕いてしまったのである。自分からは一番嫌っていた独身生活で生涯を終える神父の道など、もってのほかだったものが、神様が、一瞬に粉砕されてしまった。
 この召命を受けた瞬間、想像力が司祭として生きている、ある場面を生き生きと映し出した。それは、日曜日にミサに与って帰ってゆく信者に挨拶している自分の姿であった。それからというもの、神父になる限りは、司牧者の仕事をしたいという願望が心に宿り、一生、司牧の活動をやってゆきたいという思いが定着した。修練院の時も、哲学を勉強しているときも、神学を学ぶ時も、この司牧者として生活してゆきたい思いはずっと続いた。
 ところが、私の意に反して、司祭叙階を受けてから現在に至るまで、ほとんど、管理職に廻された。修練長、副院長、院長、管区長、そして最後に大司教にされてしまった。大司教の職務を降りてから淡路島の洲本教会に派遣されるまではほとんど管理職であった。それまでは、広島の祇園教会で宣教司牧に専念する事ができた。自動二輪と普通車の二つの免許をとって、教会の宣教司牧に専念することが出来た。この神父になったばかりの3年間は、本当に幸福だった。カテキズムのクラスを15も持って毎晩、食後に2件の家族を廻って、教理を教えることができた。その他も司牧的な仕事に追われて過ごした。この初めの3年から後はすべて管理職を続けてきた。
 2014年に大阪教区の大司教を終えて、現在の洲本教会に任命されて、宣教司牧がようやく出来るようになって、今は本当に幸せである。もう歳が79才であり、もうすぐ80才になるが、幸いまだ元気なので、最後まで今の仕事を続けてゆきたい。
 洲本教会はすばらしい教会で、難しい人が一人もいないので、和気あいあいとして楽しい場所だ。フィリピン人が40人ほどおり、日本人よりも多く、日曜日のミサは全部で70人ぐらいが集まる。アフリカのカメルーンから一人、その他ベトナム人やブラジル人がいる。だんだんと日曜日にミサに与る人の数が、増えてくるのもうれしいことだ。このクリスマスにも幼児洗礼が一人、大人の洗礼が一人あったことも、大きな喜びであった。
 これからも皆でつくりあげてゆく、すばらしい教会になって欲しいものだ。
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2017年03月05日

御心が行われますように

御心が行われますように
後藤 進 神父


 3月、今年は1日が灰の水曜日で、主イエス・キリストの受難・死を偲ぶ四旬節が始まる。四旬節とは40日間の期間のことだが、今年の復活祭は4月16日であるから、3月の31日間と4月の復活祭前日までの15日間を加えると合計は46日間になるが、その中に日曜が6回あり、日曜日は主イエスの復活の記念日であり喜びの日なのでその6日は数に入れない。
 主イエスの公生活、それは父なる神の御心を行うこと、このことに尽きるだろう。「子は、自分の見た父の業以外には、自分からは何もできない。父がすることは何でも、子もまた同じようにする。父は子を愛し、自分がすることをすべて、子にお示しになる。」(ヨハネ5;19・20);「父が、わたしに成し遂げるようにとお与えになった業、すなわち、わたしが今している業こそ、父がわたしを遣わしたことを証しするのである。」(ヨハネ5;36);「わたしが天から降ったのは、自分の意志を行うためではなく、わたしを遣わした方のみ旨を行うためである。わたしを遣わした方のみ旨とは、わたしが与えられたすべての者を、一人も失うことなく、終わりの日に復活させることである。わたしの父のみ旨は、子を見て信じる人には皆、永遠のいのちがあり、わたしがその人を、終わりの日に復活させることである。」(ヨハネ6;38・40)
 弟子たちの信仰告白、それを待っていたかのようになされる受難予告、死を前にしたイエスの言動。そこには自分の死期を悟った人が恐らくなすような家族、弟子たち、友人たちへの思いやりや別れの思いそしてご自分の死を見つめている者として同じようなことが主イエスにもあるのではないかと思っている。それが神の子が人となったことの意味であろうと考えている。そのような死を前にした中でなされている霊的なこと、そして復活の後に言われているような霊的なこと、とりわけ最後の晩餐でのご聖体の制定、罪の赦し、聖霊の授与、永遠の生命(復活の生命・神の生命)を生きることをじっくりと黙想して見たいと考えている。四旬節の過ごし方を皆さんも考えてみてください。
 昔から言われていることですが、四旬節にはイエス様のご苦難を思って、犠牲を捧げましょう。出来れば四旬節中同じことを捧げ続けられる犠牲がいいですね。
posted by カトリック明石教会 at 10:26| Comment(0) | 巻頭言