2017年03月05日

御心が行われますように

御心が行われますように
後藤 進 神父


 3月、今年は1日が灰の水曜日で、主イエス・キリストの受難・死を偲ぶ四旬節が始まる。四旬節とは40日間の期間のことだが、今年の復活祭は4月16日であるから、3月の31日間と4月の復活祭前日までの15日間を加えると合計は46日間になるが、その中に日曜が6回あり、日曜日は主イエスの復活の記念日であり喜びの日なのでその6日は数に入れない。
 主イエスの公生活、それは父なる神の御心を行うこと、このことに尽きるだろう。「子は、自分の見た父の業以外には、自分からは何もできない。父がすることは何でも、子もまた同じようにする。父は子を愛し、自分がすることをすべて、子にお示しになる。」(ヨハネ5;19・20);「父が、わたしに成し遂げるようにとお与えになった業、すなわち、わたしが今している業こそ、父がわたしを遣わしたことを証しするのである。」(ヨハネ5;36);「わたしが天から降ったのは、自分の意志を行うためではなく、わたしを遣わした方のみ旨を行うためである。わたしを遣わした方のみ旨とは、わたしが与えられたすべての者を、一人も失うことなく、終わりの日に復活させることである。わたしの父のみ旨は、子を見て信じる人には皆、永遠のいのちがあり、わたしがその人を、終わりの日に復活させることである。」(ヨハネ6;38・40)
 弟子たちの信仰告白、それを待っていたかのようになされる受難予告、死を前にしたイエスの言動。そこには自分の死期を悟った人が恐らくなすような家族、弟子たち、友人たちへの思いやりや別れの思いそしてご自分の死を見つめている者として同じようなことが主イエスにもあるのではないかと思っている。それが神の子が人となったことの意味であろうと考えている。そのような死を前にした中でなされている霊的なこと、そして復活の後に言われているような霊的なこと、とりわけ最後の晩餐でのご聖体の制定、罪の赦し、聖霊の授与、永遠の生命(復活の生命・神の生命)を生きることをじっくりと黙想して見たいと考えている。四旬節の過ごし方を皆さんも考えてみてください。
 昔から言われていることですが、四旬節にはイエス様のご苦難を思って、犠牲を捧げましょう。出来れば四旬節中同じことを捧げ続けられる犠牲がいいですね。
posted by カトリック明石教会 at 10:26| Comment(0) | 巻頭言

御心が行われますように

心が行われますように
後藤 進 神父
 3月、今年は1日が灰の水曜日で、主イエス・キリストの受難・死を偲ぶ四旬節が始まる。四旬節とは40日間の期間のことだが、今年の復活祭は4月16日であるから、3月の31日間と4月の復活祭前日までの15日間を加えると合計は46日間になるが、その中に日曜が6回あり、日曜日は主イエスの復活の記念日であり喜びの日なのでその6日は数に入れない。
 主イエスの公生活、それは父なる神の御心を行うこと、このことに尽きるだろう。「子は、自分の見た父の業以外には、自分からは何もできない。父がすることは何でも、子もまた同じようにする。父は子を愛し、自分がすることをすべて、子にお示しになる。」(ヨハネ5;19・20);「父が、わたしに成し遂げるようにとお与えになった業、すなわち、わたしが今している業こそ、父がわたしを遣わしたことを証しするのである。」(ヨハネ5;36);「わたしが天から降ったのは、自分の意志を行うためではなく、わたしを遣わした方のみ旨を行うためである。わたしを遣わした方のみ旨とは、わたしが与えられたすべての者を、一人も失うことなく、終わりの日に復活させることである。わたしの父のみ旨は、子を見て信じる人には皆、永遠のいのちがあり、わたしがその人を、終わりの日に復活させることである。」(ヨハネ6;38・40)
 弟子たちの信仰告白、それを待っていたかのようになされる受難予告、死を前にしたイエスの言動。そこには自分の死期を悟った人が恐らくなすような家族、弟子たち、友人たちへの思いやりや別れの思いそしてご自分の死を見つめている者として同じようなことが主イエスにもあるのではないかと思っている。それが神の子が人となったことの意味であろうと考えている。そのような死を前にした中でなされている霊的なこと、そして復活の後に言われているような霊的なこと、とりわけ最後の晩餐でのご聖体の制定、罪の赦し、聖霊の授与、永遠の生命(復活の生命・神の生命)を生きることをじっくりと黙想して見たいと考えている。四旬節の過ごし方を皆さんも考えてみてください。
 昔から言われていることですが、四旬節にはイエス様のご苦難を思って、犠牲を捧げましょう。出来れば四旬節中同じことを捧げ続けられる犠牲がいいですね。 
posted by カトリック明石教会 at 10:22| Comment(0) | 巻頭言

2017年02月04日

2017年2月号 『福音の喜び』を読む 9』

『福音の喜び』を読む 9』
橋聡
 現代の世の中の危機についての叙述をつづけながら、教皇様は、貨幣崇拝と人間性優位の否定を指摘されています。「真に人間的な目標を欠く、貨幣崇拝と顔の見えない経済制度の独裁というかたちで、古代の金の雄牛の崇拝が、新しい、冷酷な姿を表しているのです」。少数の人の莫大な利益と多くの人の貧しさとの不均衡が生み出されている現代の経済至上主義の背後に、倫理の拒否と神の否定が潜んでいると指摘されています。そして、「富むものは貧しい人を助け、敬い、励まさなければならない」と言われます。経済や金融に「倫理」を取り戻さなければならないということです。
 また暴力の原因の一つとしてこの格差のことを取り上げられています。安全が求められているにもかかわらず、「しかし、社会や人々の間での排除と格差とが取り除かれないかぎり、暴力を根絶することは不可能でしょう」。「これは、排除される人々の暴力的な反応を格差が引き起こすことだけにではなく、社会システムと経済システムがもともと不正だということに起因するのです」。不正な社会システムの背景には、不正を行う人、不正な差別や格差を放置し続ける為政者の不作為やあるいは悪意、それと関係すると思われる汚職や賄賂・献金・見返り、またそれを支える民衆の熱狂的・積極的同意やあるいは消極的黙認という問題が横たわっているのではないかと思われます。「善がおのずから広まる傾向にあるのと同様、悪への同意、すなわち不正は、有害な力を拡大し、どんなに堅固に見える政治社会システムであっても、それをひそかに根底から覆すのです。」ここで教皇様は悪しき社会システムの力の背景に、「悪への同意、すなわち不正」が関係していることを教えておられると思います。
 この暴力はさらに、軍備拡張競争に発展していきます。そして、「周知のとおり、武器と暴力による鎮圧は問題を解決するどころか、新たにいっそうひどい紛争を引き起こしてしまいます」。
 私たち一人一人の「悪への同意、すなわち不正」が、積み重なっていくことによって、社会の不正、暴力、そして戦争へと傾いていくことがここには描かれているとも言えるのではないでしょうか。
posted by カトリック明石教会 at 12:51| Comment(0) | 巻頭言