2016年11月07日

2016年11月号 『福音の喜び』を読む 

『福音の喜び』を読む 
橋 聡

 『福音の喜び』は第二章、「危機に直面する共同体」に入ります。ここで教皇様は、私たちの陥っている、さまざまの問題を取り上げ、それに気づいて、新しい歩みを模索するように励ましておられるように思います。ときどき、読者にとっては、心をえぐられるような、身につまされるようなたとえも出てくるかもしれませんが、私たちの回心と成長にとっては、自分の気が付かない部分などを指摘されて、衝撃を受けることも必要だと思われます。自分の盲点が照らされることによって、はじめて行動を変えるように促されることもあるからです。
 その分析は、「聖霊の光と力によって養われている」(聖ヨハネ・パウロ二世)宣教する弟子の見方において進めようとします。「神の国がもたらす収穫と、神の計画に対する脅威とを的確に区別しなければなりません。それは、よい霊と悪い霊それぞれの働きかけを見分け解釈するだけでなく、よい霊を選び悪い霊の働きかけを拒否する―これが決定的なことなのです。」そして、教皇様は、現代の病理をえぐり出すことに取り掛かります。
 「今日においては『排他性と格差のある経済を拒否せよ』とも言わなければなりません。この経済は人を殺します。路上生活に追い込まれた老人が凍死してもニュースにはならず、株式市場で二ポイントの下落があれば大きく報道されることなど、あってはならないのです。これが排他性なのです。飢えている人々がいるにもかかわらず食料が捨てられている状況を、私たちは許すことはできません。これが格差なのです」。
 「この状況にあってもまだ、経済における『トリクルダウン理論』を支持する人がいます。」トリクルダウン理論は、大企業がもうかれば、その恩恵が庶民にもまわってくるというアベノミクスの下敷きにもなっている理論なわけですが、果たしてそれがうまくいくのか、それとも教皇様が危惧しておられるような、排他性と格差のある経済をますます進めていくことになるのか、壮大な実験が日本でも行われているわけです。現在日本に住む私たちは、この流れの中で人々の貧困や苦しみにますます無関心になってしまわないように気をつけて行かなければならないのではないでしょうか。
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2016年10月03日

216年10月 自己紹介6

巻頭言
   池長 潤 大司教

 この前、自己紹介5で書いたようにイエズス会における最後の修練(第3期修練)の終わりに、第3期修練者が全員行うことになっている、イエズズ会創立者のロヨラの聖イグナチオが生み出した黙想である「霊操」を一ヶ月間に渡ってした時に、どのような祈りの体験をしたかについてお伝えした。お伝えした体験はいわゆる観想と言われる範ちゅうに属するものである。
ところで、この種の祈りの体験とは別種の際立った体験もあったので、今回はそれを記してみたい。
 前回にイグナチオの霊操は4週にわたって行われるものであることを申し上げたが、その第3週が終わって第4週に移るなか、休みの日の晩のことである。夕食が終わって、第4週がこれから始まろうとするとき、食事の後の休憩に、修道院の庭に出た。もうあたりはすっかり暗くなっていた。建物から外に出るなり、何か不思議なことに岡の上の方に向かって、引きつけられるように歩かされた。広島の長束のこの修道院には、庭の上の方にお墓がある。これまで亡くなったイエズス会の司祭や祇園教会の信者がここに葬られている。
何としたことか、私はこの闇の中を、お墓の方に向かって引っ張られていた。そこに至る道は、両側に森が囲んでおり、樹々に挟まれた細い道になっている。こんな時間にこんなところをお墓に向かって行くことなど、普段は考えられない。それをこの時はなぜか引きずられるように、墓まで導かれたのである。「怖い」といった感覚はなかった。岡の上のお墓に踏み込んだとたん、美しい星空の上一面に天が開け、亡くなられた信者たちや修道者たちが、そこに今生きていることがはっきりわかった。ものすごく幸せであった。自分もそこに行けるのだと思った。神様はこんな世界を私たちに差し出してくださる方なのだ。
一ヶ月の霊操が終わって、次の日は一日休みであった。この日に、散歩に出かけた。歩き始めた時から、道の両側に広がる自然がこれまで見続けてきた自然と全く違って見えた。その違いが、いつもと少し違うというものではなかったのである。自然そのものが神秘の世界と一体化しているように感じていた。世界とはこんなにも美しいものかと思いながら散歩していた。ひょっとすると、一週間前に見た星空と今回味わった大自然とが、本当の現実の世界なのかもしれない。普通目に見えている世界は、本来はそれを越えた神秘の世界と一体化して存在しているのではないだろうか。


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2016年09月13日

「2016年、9月に想うこと。」

「2016年、9月に想うこと。」
                     神戸西ブロック担当司祭 申 繁時
このたび、4月から神戸西ブロックに派遣されました申繁時(シンシゲトキ)神父です。今回も皆さんと少しばかり分かち合いたいと思います。私たちは、毎日の生活を(この暑さの中で)しっかりと自分自身を保ちながら生活しています。その生活は国の文化を重んじながら、秩序をもって、人間らしく生きていることが大切かつ重要に感じながら歩んでいることです。                                     そして、大自然とも大きく関わって生きています。太陽の光を浴びて、雨の恵みをいただき、時には大自然の驚異(最近は災害を身に感じることが多いですが)を感じながら、自分自身の生活とも照らし合わせて日々の生活を歩んでいます。つまり、等身大の自身のままを通して生きていきます。 と同時に、大事に感じていることは、「こころ」を大切にすることです。このこころをもって、人間として人間関係を保ちながら生きています。だからこそ「人間である」と言えることでしょう。そして、全身全霊を満たしながら、心身を傾けて良き生涯を送ることとなります。(少し哲学的になり理解しにくいかもしれませんが。すいません)                                      ここで、私たちキリスト者は上記の部分をすべて理解しながらも、もう一つを大切にします。それは生涯を「神さまにすべておまかせする」ことを、第一の願いと望みとして生きたいとすることです。ここに、キリスト者がキリスト者として生きる意味があります。大切なのは、「おまかせするこころ」です。                      決してキリスト教は難しく難解でも困難なものでもありません。もし難しく感じたり、困難と思うことがあるとすれば、それはこころを大切に感じられないときではないでしょうか。こころを豊かにすることを望んで生きようとすれば、必ずこころは豊かに成長します。こころを大切に感じなければ、困難で、苦しい生き方がやってくることがあります。人生は楽しく、豊かで、いつも喜んで生きることができるはずです。なぜならば、「すべては恵み」だからです。ひとの人生そのものが、神さまの恵みだからです。あきらめないで、こころを育てることをいたしましょう。小さなささやかなことに恵みを見つけて、喜んで生きましょう。
「私は静かに神を待つ。私の救いは神から来る。」(詩編62)
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