2017年01月05日

2017年1月号 「 2017年1月に想うこと 」

「2017年1月に想うこと。」                                 
担当司祭 申 繁時


2017年の新年を迎えました。おめでとうございます。
みなさまにあたらしい年のはじめの挨拶をさせていただきます。
(正式には昨年の待降節から典礼歴は2017年度のA年が始まりました。昨年12月には降誕祭・クリスマスがあり、みなさまのこころにまたあらたに神さまの救いが届きました。)
それで、みなさまと少し分かち合いたいと思います。
2016年をすこし振り返りますと、まず私個人としてはこの神戸西ブロックに派遣されたことです。新しい派遣先で最初は困惑もありましたが、少しずつ新しい気づきとともに日々の生活を神さまとともに過ごすことができたように思います。
また現実の社会についても昨年一年を想うと、日本、世界に天災・人災などの出来事が多々あり、そのたびに祈りを重ねたときでもありました。(全世界が変わりつつあるようにさえ錯覚しそうです)・・・ 
あらためて私たち教会共同体には大きな目的があります。その目的は「神の国の建設」のために生きることです。それは希望と勇気をもってたえず前進していくことです。一人ひとりが「キリスト者としての召し出しに答えていく」ことです。そのことにより次の時代に、神さまへのよろこびの引き継ぎがおこなわれます。とはいっても確かに私たちはそのつど目の前の現実を乗り越えていくことに完結し満足している部分は大いにあります。、けれど、それが生きていくこと、生きている証しとなります。ただ、次の時代に次の世代に、人のこころ神さまのこころを伝えることを忘れてしまっては、神さまからいただいた召し出しの恵みをおこなうことがおろそかになりかねません。なぜならば、なによりも神さまが私たちを先に愛してくださり、キリスト者としての生き方に選ばれたからです。そして、そのことが最大の幸福・しあわせであることを知り、教え導いてくださるからです。
みなさまにとって2017年の今年はどんな年になるでしょう。どんな年にしたいでしょうか。特別なことでなくていいので、ささやかなことにこころを向けるいかれることです。小さな祈り、他者へのあいさつひとつでもいいので、神さまを喜ばせていただきたいです。
最後に、とても良いと思う詩を見つけました。よかったらお読みください。
「道」(作者不明)
「長い人生にはなぁ  どんなに避けようとしても  どうしても通らなければ
ならない道というものが  あるんだなぁ
そんなときは その道を  黙って歩くことだな  愚痴も弱音も吐かないでな
黙って歩くんだよ  ただ黙って 
涙なんか見せちゃダメだぜ  そしてなぁ  そのときなんだよ  人間としての  
いのちの根がふかくなるのは  人間追いつめられて  はじめて本音を吐く  
そのとき  どんな本音を吐くか  それが大事 」
私自身もあらためて本音で語り成長できる一年にしたいと思います。
本年もよろしくおねがいいたします。
posted by カトリック明石教会 at 10:44| Comment(0) | 巻頭言

2016年12月05日

2016年12月号 「 待降節に思うこと 」

待降節に思うこと
    
                         
後藤 進神父

相模原の障害者施設での元職員による殺人事件、この事件の報に接した瞬間に私が思い出したのは、大阪で長崎出身の青年が病死した時に、その葬儀を断った神父のことでした。青年の通夜と葬儀ミサは私が引き受けました。その神父の話を直接聞いた訳ではありませんが、私が聞かされたのは、その青年が教会に全く来なかったことを非難し、彼には信仰がないのだ、信仰がない人の葬儀を教会はしない、というものでした。その時、私の心に浮かんだのは、「ほう、あんたは神様か」の言葉でした。この施設の元職員の「障害者は生きる価値がない」との言葉に、私の心に同じ言葉が浮かんだのでした。
当時、私は重度の障害者の人達と生活を共にしていた。生れつきの重度障害であった。殆ど何をするのも助けを借りねばならない人達だった。私の中では、彼らをこのような障害者にしたのは神様以外にはありえなかった。生れつきの盲人を見た時の弟子達の問い「この人が生れつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」に答えるイエス様の声「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」(ヨハネ9;3)も心に響いていた。もう一つ私の心にあったのは神様とアブラハムとの対話(創世記18;17~33)の話である。
話は逆であって、真実のところは神様からの重荷を黙って背負ってくれている彼らに普通の人である我々の方が支えてもらっているのである。普通の人である我々は、人を蔑みもする、批判もする、欲もかく、要するに罪人なのである。彼らは人の助けをかりなければならないので人の批判はしないし、自分では出来ないので欲もかかない、助けを待つ忍耐の大事さも知っている。彼らの方が余程神様の前に正しい人である。私は彼らこそが主の僕だと思っている。
私たちも彼らの様に、神様から来ることは本来なんでも受け取るべきではないか。そうあのヨブのようにである。いや、神様の手から来るものに悪いものなどないと、私は考える。出来れば喜んで受けるべきである。それが神様の僕たる者の生き方であろう。
posted by カトリック明石教会 at 14:30| Comment(0) | 巻頭言

2016年11月07日

2016年11月号 『福音の喜び』を読む 

『福音の喜び』を読む 
橋 聡

 『福音の喜び』は第二章、「危機に直面する共同体」に入ります。ここで教皇様は、私たちの陥っている、さまざまの問題を取り上げ、それに気づいて、新しい歩みを模索するように励ましておられるように思います。ときどき、読者にとっては、心をえぐられるような、身につまされるようなたとえも出てくるかもしれませんが、私たちの回心と成長にとっては、自分の気が付かない部分などを指摘されて、衝撃を受けることも必要だと思われます。自分の盲点が照らされることによって、はじめて行動を変えるように促されることもあるからです。
 その分析は、「聖霊の光と力によって養われている」(聖ヨハネ・パウロ二世)宣教する弟子の見方において進めようとします。「神の国がもたらす収穫と、神の計画に対する脅威とを的確に区別しなければなりません。それは、よい霊と悪い霊それぞれの働きかけを見分け解釈するだけでなく、よい霊を選び悪い霊の働きかけを拒否する―これが決定的なことなのです。」そして、教皇様は、現代の病理をえぐり出すことに取り掛かります。
 「今日においては『排他性と格差のある経済を拒否せよ』とも言わなければなりません。この経済は人を殺します。路上生活に追い込まれた老人が凍死してもニュースにはならず、株式市場で二ポイントの下落があれば大きく報道されることなど、あってはならないのです。これが排他性なのです。飢えている人々がいるにもかかわらず食料が捨てられている状況を、私たちは許すことはできません。これが格差なのです」。
 「この状況にあってもまだ、経済における『トリクルダウン理論』を支持する人がいます。」トリクルダウン理論は、大企業がもうかれば、その恩恵が庶民にもまわってくるというアベノミクスの下敷きにもなっている理論なわけですが、果たしてそれがうまくいくのか、それとも教皇様が危惧しておられるような、排他性と格差のある経済をますます進めていくことになるのか、壮大な実験が日本でも行われているわけです。現在日本に住む私たちは、この流れの中で人々の貧困や苦しみにますます無関心になってしまわないように気をつけて行かなければならないのではないでしょうか。
posted by カトリック明石教会 at 10:38| Comment(0) | 巻頭言